【御朱印】京都府京都市北区にある「鹿苑寺(金閣寺)」へ行ってきた。

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歴史

正式名称を鹿苑寺といい、相国寺塔頭寺院の一つ。舎利殿金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。 元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。

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【御朱印】京都府京都市上京区にある「北野天満宮」へ行ってきた。

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  • JR京都駅より市バス50・101系統
  • JR地下鉄二条駅より市バス55系統 JR円町駅より203系統
  • 地下鉄今出川駅より市バス51・102・203系統
  • 京阪出町柳駅より市バス102・203系統

歴史

右大臣菅原道真左大臣藤原時平の讒言にあって左遷され、延喜3年(903年)に大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔藤原時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。

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【御朱印】京都府京都市上京区にある「千本釈迦堂」へ行ってきた。

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歴史

鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立した。室町時代勧進状によれば、猫間中納言と呼ばれた藤原光隆の従者であった岸高なる人物が境内地を寄進したという。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている。

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【御朱印】京都府京都市右京区にある「龍安寺」へ行ってきた。

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「石庭」として知られる枯山水の方丈庭園で有名な龍安寺は、室町幕府管領守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺一円は、永観元年(984年)に建立された円融天皇御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地に山荘を建立した。この山荘を細川勝元が譲り受け寺地とし、初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の寺地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。

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【御朱印】京都府京都市上京区にある「千本ゑんま堂」へ行ってきた。

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京都市バス・「千本鞍馬口」下車。又は「乾隆高前」下車。

歴史

京の三大念佛狂言のひとつ「千本ゑんま堂大念佛狂言」が伝わる寺として有名。百人一首に登場する歌人で、閻魔法王に会ったエピソードで知られる小野篁を開祖とすることから、数ある京の寺の中でも珍しく、閻魔法王をご本尊としている。 

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【御朱印】京都府京都市中京区にある「二条城」へ行ってきた。

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二条城は、江戸時代に造営された日本の城である。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコ世界遺産世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。

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清水区入江岡にある「らーめん矢吹」で「よくばり魚介豚骨ラーメン」を食べてきた。

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情報

店名:らーめん矢吹

住所:静岡県静岡市清水区入江岡町1-5

定休日:水曜日

HP:らーめん矢吹 清水入江岡店 | 店舗紹介 | らーめん矢吹 オフィシャルサイト

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【御朱印】東京都新宿区西早稲田にある「穴八幡宮」へ行ってきた。

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所在地:東京都新宿区西早稲田2丁目1−11

歴史

康平五年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮勧進し、永く東北鎮護の社として祀られました。  寛永十八年(1641)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが、三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。  慶安元年(1648)社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷三十六ヶ町が定められ、翌年の慶安二年(1649)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、八千八百余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い、以後江戸屈指の大社として重んぜられました。その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、特に元禄十六年(1703)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。  安政元年(1854)青山火事のために類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。その後、昭和初年に旧事の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成十年の随神門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建、また境内地の整備に着手し今日に至っています。

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【御朱印】東京都新宿区西早稲田にある「法輪寺」へ行ってきた。

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所在地:東京都新宿区西早稲田1丁目1−15

歴史

法輪寺は慶長11年、西暦にして1606年市ヶ谷田町に(当時の法華富士派)の布令頭として大本山北山重須本門寺第十二世日賢上人にて開創。寛永11年、西暦1634年江戸城総構の大工事のため現在の早稲田に移転。当山三世日優上人は寛永18年、江戸幕府三代将軍家光公の側室であられた阿楽の方「宝樹院増山氏」難産に際し江戸城に登城し、日蓮大聖人直筆の曼陀羅を奉掲祈願し、四代将軍家綱公安産なさしめた。その尊い曼陀羅を「子安曼荼羅」と称し、今日大本山北山重須本門寺の宝物として現存している。

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